言葉と宗教

今、ラボで一緒に働いている日本人は移植外科医と免疫学者だが、話していてとても面白い。金曜日4時からはHappy hourというビールを飲みながら研究室の脇のキッチンエリアでダラダラだべるのが、うちのラボのお決まりである。今日は周りで談笑 している非日本人に悪いなと思いつつ、その2人と日本語での会話にのめりこんでしまった。2人とも日本史、世界史、近代史まで良く知っており、宗教や言語学にまで造詣がある。

宗教を語るに、立花隆の「猿学の現在」を引き合いに出してみた。人にしか無いと思われる多くのものが既に猿の世界に存在することがこの本で分かる。芸術と同じく、猿には宗教は無いのではないか?という質問を投げてみた。これに対し、H氏は宗教が必要になる心因的な要因は猿にも既に存在するのではないかということを死んだ子供の面倒を見る猿の親を例にして出していた。そうかも知れないなと思った。それに対し、形式化したものでないと宗教とは言えないのでは無いか?とO氏。それもそうだなと。それでは文章に書いて伝えることなどが必要なのではないか、と私が言うと、それは違う、巫女などは一子相伝のような形で 書物が無い状態でも宗教を形式化したとH氏。それでは言葉は必要なのではないかと言うと、それはそうかも知れないと。これに皆反論は無かった。

ここでウンベルトエーコの「薔薇の名前」のキャッチフレーズがピンと来た。これには感動した。勘違いかも知れないが、自己満足には十分な納得であった。この本・映画は「ヨハネによる福音書」の引用から始まる。 「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」 なるほどそうなのかなあと。この言葉は妙に気になっていただけに、少し嬉しかった。原作も機会があったら読んでみたい。

In the beginning was the Word and the Word was with God, and the Word was God.

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