「万能か全能か、医学と科学」を読んで

柳田先生の発信する内容はいつも感じることが多いのですが、今日はあまりに反応が強かったので散文になりますが書いてみます。

なぜ明快に書けないのか―英語医学・科学論文の診断と治療 (単行本) Lester S. King (著), 助川 尚子 (翻訳), 日野原 重明 (翻訳)
という
Why not say it clearly: A guide to scientific writing (Hardcover) by Leste S King (Author)

の訳本があります。これは科学論文を書く上での手引きとして名著だと思っていますが、絶版のようですね。価格が原著の10倍以上しているのは驚きです。確か、この本の序文に何故医者が科学論文を書くようになったのか、その歴史的経緯とひずみが端的に書かれていたのが強く記憶に残っています。医者らし い医者、医者らしい医学研究をする友人、医学とかなり乖離した研究をする医師免許を持った人々、純粋基礎研究者の友人、医者かつ医学研究者である父を持 ち、自分が現在同じ職についているという環境から、生物学という純粋科学の価値観と医学という実学の価値観に関しては常に関心を持っていました。更に研究 にはお金がかかります。

それゆえこのエントリーには反応してしまったのだと思います。人を幸せにすべく存在する医学、そのための研究であるはずの医学は生物学・分子生物学 と密接に絡み合い、評価の基準は純粋科学の評価基準と実学としての評価基準そしてビジネスとしての評価基準がない交ぜになって混沌としています。頭の良い人、流れに上手く乗ることが出来る人はその混乱の中を泳いでいきます。このあたりの混乱についてはいずれまた書きたいと思いますが、柳田先生のエントリー はそれを分かりやすく表現されています。

反応したもうひとつの理由はStem Cell Biologyでの命名についての常日頃の疑問と柳田先生のコメントが気になったからです。pluripotentは多くの系列に分化可能であるという意 味で多能性と訳され、全ての系列に分化可能という意味ではありません。全ての系列に分化可能という能力についてはtotipotentという別の言葉あ り、日本語訳は全能性です。万能性という言葉に対応する元の英語が何なのか私は知りません。

大切な仕事をした人ほど、正確な命名を心がけ、レベルが落ちる人ほどStem CellやES Cellというインパクトの強い言葉を使いたがる気がします。そういう意味でiPSというのは控えめであると同時に極めて正確な小気味良い命名だと思います。同様の命名にSRC(SCID-repopulating cell/SCIDマウスの中で再度分化・増殖する細胞)という名前を付けたJohn E. Dickという基礎研究者がいます。彼はCancer Stem Cellという今までの常識と逆の概念を初めて世に持ち出し、その後一つの分野を作った現存する偉大な研究者です。その後もStem Cellの基礎的かつ大切なBiologyを研究し続けています。彼はStem Cellという言葉を用いずSRCという言葉を用いました。山中先生と同じ空気を感じます。その後、主に固形臓器におけるStem Cellを見つけたと主張する論文、何に対してもStem Cellと名づけたがる著者達と一線を画します。

ESに関しても同じ事が言えます。私はノックアウトマウスの作成システムを研究室で立ち上げたことがあり、100%キメラでもGermline Transmissionが行かないことを経験し、分化能で最初に落ちるのは生殖細胞への分化能力であるということを身を持って体験しています。それからすると、ヒトES細胞と今呼ばれているものが、ESと呼ばれたその瞬間から「ES細胞」の定義が根本的に変わってしまったと思っています。ES細胞樹立という受精卵の内部細胞塊から樹立したライン由来の個体を作成するという技術はマウスでしか成功していません。大動物はおろか、ラットでさえ試みられては失敗しています。ヒトに関しては倫理的な問題から永遠に不可能でしょう。各臓器へのContributionがあることと一個体を再構成できる totipotentialは別個のものという認識が私の中では強く、ES細胞のみからの個体発生という最大の難関を証明していないいわゆるサルESやヒトESというのは一体何なのだろうと私は思っています。命名は大切です。サルESやヒトESは全ての臓器になりうる(と発現マーカーを持って信じている、信仰、、、)万能細胞かもしれませんが、決して全能性細胞ではありません。

山中先生の最初のCellのペーパーでは多能性、或いは各臓器にContributeできるという万能性が示されただけでした。隅から隅まで読んでもGermline transmission(iPS由来の正常な生殖細胞が作られ、その生殖細胞由来の次世代の個体が作られること)が記載されず、以前に一緒に研究していた友人と「やっぱりGermlineは難しかったんだね、もしこれが行ったら衝撃だよね」と話しているのを覚えています。そして、NatureにてGermlineに乗ったという論文が出されたわけです。これは衝撃でした。というかCancer Stem Cellと同じく、証明されていないが研究者が持っている感覚的な常識を覆したわけです。

「癌はある細胞が一定の段階にあるときに癌化し、その分化段階での形質を癌化後も維持する」という考え方が常識だったときに、シンプルに、正確に「白血病において癌化は幹細胞の段階で起きるが癌化が起きてもなお分化のプログラムを正常に進行しうる。癌の本体は癌全体の1%にも満たない特殊な癌幹細胞にある」ということを示したJohn E. Dick。Nuclear transferを見ても分かるように「Stem Cellの機能は極めて可逆化し辛く、多くの遺伝子による複雑な制御を受けてる」という考え方を皆何となく感じているときに「4個の遺伝子(今では3個)を皮膚の分化済み細胞に入れることにより全能性が得られる」という肌で感じる常識を覆した山中氏。

山中先生の研究がCellのペーパーに論文化される数年前かThe International Society for Stem Cell Research (ISCCR)で超飛び切りの話題になった時から友人と「これもお金になる特許やら実用の面では米国にやられるのでは」と話していました。NatureでGerm Line Transmissionを示す段階で追いつかれました。物凄いスピードです。柳田先生のコメントにもそのあたりを意識したコメントが散見されます。資源の無い日本、世界有数の教育レベルを保ち、頭を使いそれをお金に換える努力が必要です。山中先生の仕事はそこに直結します。その辺りの周辺状況、柳田先生のエントリーを見る限り、今までよりは随分良いようで少し安心した次第です。

日本人などが大切な分野でトップを走り始めたときに、追い上げ抜かして制覇しようとする外国勢特に米国のそれは凄いものがあります。近年では坂口志文先生のregulatory T cellがその良い例です。直接お話したときに「Biologyをやりたかったが、何らかの遺伝子を取らない限り分野そのものを持っていかれてしまう」という話を聞いたときには坂口先生という人は凄いなと思いました。その後、坂口先生はTregにFoxP3ありきを示し、クローニングしたわけではありませんが、その分野の第一人者であることを実力で認めさせたように思います。アメリカの中心であるNIHにいる名前は出しませんが、Tregの第一人者とされている人が以前は出さなかった坂口先生の名前を必ず発表のイントロに入れるようになったそうです。

何でもブームがあります。少し前は遺伝子治療がその名前の下に大きなお金が流れ、現在は再生医療です。結構わけの分からない研究に多くのお金が落ちていると聞きます。遺伝子治療はヒトでの失敗(ベクター由来の癌の発生、遺伝子導入効率のマウスに比べての異様な悪さ)で多くの人が撤退しました。山中研究の面白いところはその基盤に遺伝子操作が必須であるところです。臨床応用という華やかな舞台から、ベクターの作成という極めて地味な所まで、撤退したことにより時流に敏感な多くの人は研究を止めました。ここHarvard界隈でも遺伝子治療の研究室は現在は一つもないと聞きます。ファッションに流されず地道に研究を続けていた人たちに山中先生の発見で陽が再度当たることになるでしょう。これもまた小気味良い気がします。

今後もこの分野は目が話せません。是非全てが良い方向に向かうように願っています。

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