訪問診療医と355人の患者 小堀鷗一郎
広く読まれて欲しい。特に自分と同じく医師免許を持っている者で、この本を今読まないで良い人はいないのではないか、と思う程の書物。類稀な名著であることは紹介を受けた方より自明であったが、これほど感情を揺さぶられるものとは想定していなかった。何年も無意識レベルで引っかかっていた疑念が、優れた知性の言葉によって解きほぐされることは幸せそのものである。今、この時点でこの本に巡り会えたことを大変感謝している。
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p.1 70年ほど前の1951年には、自宅で最期を迎える人が大部分で、病院・診療所における死亡は約1割にすぎなかった(11.7%)。
p.23 先に述べた「家政学講義」が世に出た1906年頃、国民の医療はすべて在宅医療であったから、在宅医療という概念も、したがって名称も存在しなかった。表題から明らかなように、この本は明治国家が期待した良妻賢母を養成するための婦女子を対象とした教科書で、看取りそのものが女性の役割であった。
p.35 こういう状況下ですら、周囲のどこを探しても、「いつまでも生きている気の顔ばかり」で”死の気配”など全く感じられません。
p.55 私は直ちに自宅退院を予測したが、本人が病棟担当医に口内炎を訴えたところ、口の中に指を入れて軟膏を塗布してくれたことに感激し、もうしばらく病院にいてもよいとのことになった。
p.58 厚生労働省が2025年問題(認知症患者が700万人に達する見込み)を視野に入れて2015年1月に公表した「認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)」では、(略)
p.60 2002年から2011年までの10年間に取り扱われた犯罪死体、変死体を除く死体(上述のように大部分が戸外で発見される)数の年間平均は全国で13万5408体である。
p.63 導き出された結論は「これは現時点での社会通念からは必然的結果である」に尽きる。
p.67 この提案は母となる娘に即座に却下された。
p.70 医師が弁護士と並んで我が子に推奨する職業の一つとなったのはいつ頃からのことなのか不明であるが、少なくとも江戸時代には、医師は”深川の遊民”として日々すごしていたことが想像される。
p.74 「時に癒やし、しばしば苦痛を和らげ、常に慰める」という言葉は、フランスの外科医アンブロワーズ・パレ(1510-90)のものとして知られている。
p.79 当時の彼はあまりにも若すぎて、記憶は悪い思い出を消し去って、いい思い出だけをより美しく飾りたてるものであり、その詐術のおかげで人は過去に耐えることができるのだということが分かっていなかった。
p.82 その理由は明快で、国民の大多数は在宅で最期を迎えることを望んでいないからである。「望んでいない」を正確に表現すれば「考えたことがない」、さらに突き詰めるならば「自分が死ぬとは思っていない」のである。
p.85 医療技術の発達と病院利用者の増大により、医療・看護関係者の間では「死は敗北」といった意識が生まれ、「延命至上主義」の風潮が広まった。
p.86 日本人が「死ぬこと」を考えなくなったこの100年間に、もう一つ考えなくなったことがある。それは「老人らしく老いること」である。
p.97 通常の握手では手を話してもらえず、無理に振り放そうとすると噛み付いて歯の力で引き留めようとする患者がいるからである。
p.98 「ご主人はどんな人ですか」
p.118 なお、在宅看取りを行う医師の間には「患者の死亡時刻から遡って24時間以内に診察が行われない場合には医師は診断書を書くことができない」という誤解が長い間存在していた。
p.124 一言で表せば、日本は「生かす医療」はトップクラスであるが、「死なせる医療」は大きく立ち遅れているということになる。
p.130 したがって在宅療養支援を行うとすれば「診療所」ではなくマンパワーが期待できる「病院」の方が現実的である。
p.147 グラフ上で二つの曲線が交叉するのは約40年前の1975年頃であるから、”病院で死ぬという文化”は約半世紀にわたって徐々に醸成されてきたことになる。
p.151 入院死は敗北であり、在宅死こそが正しいという「在宅神話」に、今度は患者も家族も縛られる状況である。
p.172 政府は15日(2015年6月)、2025年時点の病院ベッド(病床)を115万〜119万床と、現在よりも16万〜20万床減らす目標を示した。
p.174 その理由は、「望ましい死」の可否は患者の急変に際して救急車を要請するかどうかで決まることが多いからである。
p.175 救急車を要請するかどうかの決定は、患者を日頃診察し、病態だけでなく、患者・患者家族の希望を熟知している医師が行う必要がある。
p.178 2025年問題への最も効果的な対応策は、かかりつけ医、すなわちホームドクターを持つことに尽きる。
p.185 右にあげた「悲惨」は、「生かす医療」が世界第2位、「死なせる医療」が20位以下に低迷する国にしか存在しない種類の「悲惨」、物質的には豊かであるにもかかわらず、死を忌むべき敗北とみなすことから起きる悲惨と言える。
p.191 いずれにせよ、ガワンデの、医療者も患者も、いかに死を迎えるべきかをともに初心者として考え抜くべきであろうという考えは、私達に勇気を与えてくれる。
p.192 ただ死にゆく患者が何を最後の拠り所にしているのかを知り、それを共に求める努力をするだけである。
p.198 それは私の見果てぬ夢でもある。