偶然なる幸福

自分は
素晴らしいスポーツのワンシーンに感動し
成功した人生を送っている人を見て、うらやみ
自分より不幸な人を見て慰められている自分に嫌気が差す
そんな単なる俗物である。

今日asahi.comを見て二つの記事が目に付いた。

asahi.com:室内で母子3人死亡、父親は飛び降り自殺か 大阪 – 社会
asahi.com:知的障害ある息子殺害の母に懲役7年 東京地裁 – 社会

不幸な人や事件を話題にして「かわいそうに」と言うことに嫌悪感を覚え、なるべく不幸な話題には乗らないようにしている。慰められている自分に気付くのが嫌だし、話題にするだけでその人を助けようとする次の一手を自分が打たないことが殆どだからである。

しかし、今日の記事は心に納めておくにはあまりに辛い。次の一手としては余りに無責任だが、記してみる。

子供に恵まれない方々に一礼をしつつ、こう言わせてもらう事をお許しいただきたい。子を持ち、私は子供は3歳までに一生分の親孝行をするというのは本当だと実感した。子を持って親の気持ちが初めて分かるということ、「愛」という言葉の一部を理解していなかったことを実感した。

子供を愛せず虐待したり殺したり、そのような記事には不幸を感じる。その場合、心情的に子供の側に立つことが多い。しかし、愛する子供を殺すと決断したときにその気持ちたるや、いかなるものなのだろう。吐露せずにはいられないような気持ちに駆り立てられ今これを書いている。

生まれてくるとき、人は自分の親を選択できない。自らの生い立ちは出発点にて選択不能である。私は自分が幸せであることを、というか言葉どおり「単なる幸運」であったことを心の底から確信する。

新聞報道がいかに修飾されていようとも、2人の幼児と身ごもった妻を殺してから自殺した私と同じ30代の男がいる。遺体の手が組まれていた?小さな子供を自らの手で殺めて、その愛して止まない小さな手を小さな胸の上にそっと組んで置いたとでもいうのか?ありえない。演劇の中だけの話であって欲しい。読者が皆騙されていて本当は見知らぬ男の一家殺人であった方が良かったと思う。愛する家族を殺し自ら命を絶ったこの男と同じ境遇に生まれ育った時に、自分が同じ決断をしないという保障などどこにあるのか?

そして、自らの子供を殺したというこの母親、新聞報道からは推測されるのは子供を愛していたのではないかということである。もし私が知恵遅れとして生まれ、よき人にめぐり合えず、育てた子供を病気で失い、同じ知恵遅れの子を片親として育てたときに、この母親と同じ決断をしないという自信は私には湧かない。

私が彼であったかもしれない。私が彼女であったかもしれない。

たまらない。

次の一手を打たない自分がここにいていつものごとく気分が悪い。自分が少なくとも今より強く大きくなり、少なくとも身近な人々だけでも幸せな方向へ向かわせる何らかの言動を死ぬまでの数十年の間に続けたい。それが出来れば自分が棺桶に入るときに多少は自己満足できるのではないかと思う。

心より冥福をお祈りします。

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