つい先日5才になった息子は初めて補助輪無しの自転車乗りを味わった。私は「左によろけたら右に、右によろけたら左に体重を移動させるのだぞ」と教え「ほら左に、ほら右に」と声をかけた。いつもは補助輪ありで全速力でニコニコしながら漕いでいる息子も、何ともうまくいかず不満そうな顔をした。
登 大遊@筑波大学情報学類の SoftEther VPN 日記
論理的思考の放棄
ITmedia News:Googleは機械翻訳を変革する
Googleがサイトで提供している翻訳サービスでは、膨大なデータの蓄積に基づいて翻訳を行わせる「統計的機械翻訳」手法を採用している。
私が補助輪無しの自転車を息子に教えようとしてうまくいかなかったことと、この二つのエントリーは共通する部分があるように私には感じた。
僕らが自転車に乗るとき、同じシチュエーションになることはありえない。同じ道を走っていても、日の照り方、歩行者の数と量、ありとあらゆる環境が異なる。何故うまく乗れるのか?私たちはSF映画の中に出てくるロボットのように経路と走行法を逐次、頭の中で総計算しているわけではない。過去の似たような状況の複合体記憶のゆれの中から現状のインプットを加えることにより少々ずらし、うまくいくであろうという筋肉の動きを体にアウトプット(指令)している。ここには論理的な計算は無く、例を挙げるとしたらシミュレーションに近い。しかもシミュレータの中身は論理的なプログラムではなく単純化された近似式で出来ている。それゆえ、異常なほどのスピードで正しい判断(アウトプット)ができるのである。登さんのエントリーの読者に反射という言葉を使っている方がいたが、この表現を「かすっている」と私は感じた。というのは「反射」は生物学的には均一のアウトプットを出すものであるが、人の脳はインプットに対応して「ずれた」反射を返せるからである。自転車乗りに限らず人の頭を介するほぼ全てのインプットとアウトプットはこのような過程を踏んでいる。
機械翻訳はかなり前から行われてきた。機械翻訳を単語という「要素」と文法という「プログラム」で組み立てようと初期の人は考えた。ところが、全くうまく行かない。論理的なアルゴリズムに基づいた翻訳は”Time flies like an arrow.”を「時間という名のハエは矢が好きだ」と「光陰矢のごとし」の後者が合っているということを分かる仕組みが組み込めない。どちらも文法的に全くあっているからである。話しは大きくなり、それでは人間の脳が持っている能力そのものが無ければ、文章の背景が分からず正確な翻訳など無理ではないか?即ち、機械翻訳はAI(人工知能)とほぼ同一のものを目指すしかないのではないかという流れが出てきた。GoogleがやろうとしていることはAIは大変すぎるが、要素とプログラム以上のものを速やかに産みだそうとしているように見える。これも機械翻訳をデータ領域とコード領域という論理的な区分けを便利に感じるようなコンピュータ側からみたものから、人間の脳の働き方にあわせたもの、つまり状況や生活背景を加味し状況にあわせてズレを感じながら過去に出力したものを軽く変更しながら出力しようというものである。
プロの翻訳家は同じ事をしている。単語や文法ではなく一連の文や節を保管してあり、同じ状況に出会ったときには僅かに言い回しを変えながら、そのままの文を使うのである。そこには論理は無く「何故なし」なのである。それゆえ「主語の単語がどれで、動詞はこう訳し」という作業は入らない。文章がかたまりとしてインプットされており、それを状況に応じて少しずらして出力するのである。手間は圧倒的に少ない。私たち両親はベタな日本人であるが、5歳になる息子は1才半からアメリカに住んでいるため家でも9割が英語である。母国語では無いため、私は単語と文法を基に頭の中で日本語から英語に翻訳する。しかし、それとは異なり彼の間違い方をみると単語も文法も無く、文章が音の塊として彼なりの構造でインプットされ、話すときにはそれをずらしてアウトプットされているのが分かり面白い。私よりはるかに流暢で正しい英語を話す。
下記のコメント「かすっているな」と感じた。かすっているというか、感覚的には分かっていつつ明文化、一般化できていなかったというところか。面白いので一つ一つ追っていきたい。
群雄割拠の地平線: 論理的に思考するな。感覚的思考上で論理計算せよ。
ちなみに、一人で完結する場合にもコーディングする以上、どこかで論理的な記述に変換が発生する筈だとも思えるが、実際はそうじゃない。慣れさえすればパターン化された抽象的記憶から自動的に、辞書を引くように、ひたすら単純作業で完結する。
上記で述べたことをこの方はプログラミングという場で表現している。しかし辞書を引いた場合には同じ結果しか返らないが、この方も単純作業とは言いつつも実際には状況にあわせて微妙に記憶から出てきたものに変化を加えて実際にはアウトプットしている。作業の方法が脳の特性に似ている。
Strange Currencies
「仕事」というのは、恐らく9割程度は他の仕事と反復している。でないと、それは仕事とは呼べない。完全に1回きりの行為というのは、恐らく何か別のものだろう。反復と言わずに、再現性だとか、構造化といった言葉を使った方が正確かもしれない。
同感。自転車を乗るときの筋肉の使い方はいつも9割9分は同じである。同じく恐らく全く新しい思考というものはありえない。何を考えるにしても、過去の経験の複合体から得られた出力候補の残りの1%程度を微妙に変化させることによって、目の前の状況に対応している。そこにいわゆるロジック(論理)は存在しない。
ありさわDS – 論理的思考の放棄の話
登さんが言っていることって、その高みに達しろってことだ。と思う。
「高みに達する」これもなかなか言い得て妙である。確かに多くの人がそう感じたかと。しかし登さんが言いたかったことは恐らく「その高みに達するのにせよAという考え方はやめてBという考え方にしたほうが良いよ」ということでは。言うならば「論理」という言葉が持つイメージは現在強調されすぎているので、そのイメージは全く無視するぐらいに振舞った方が良いというメッセージかと。
まったり日記&メモ帳
職人というイメージがこんなものなの
「職人」言葉の響きが「論理」と相反していることに今さら気付き面白い。現在、職人芸を形式知まで落とし込もうというプロジェクトが国家事業として行われているが、果たしてうまく行くのだろうか?人間の脳のバックアップはやはり人間の脳が最適の様に私には思えるが。
論理的思考を放棄するスーパープログラマーとモーツァルト – 永井孝尚のMM21 [ITmedia オルタナティブ・ブログ]
登さんがご自身の暗黙知を分かり易く形式知にして伝えていただければ、上記の観点で見てもこれは非常に価値があることだと思います。楽しみに待ちたいですね。
論理的でない頭の中の動きを論理的である形式知に落とし込むというのは逆説的だが、それをもってもなお同感である。私は登さんの「論理的に考えないこと」というメッセージを「行動や思考回路をなるべく本来人間の脳が持つ特性に合わせる」ことと受取ったが、どうだったのだろうか。今後の登さんのエントリーに注目したい。
息子にどう自転車を教えるべきだったのか。「左に傾いたから右!」などという「論理」は恐らく彼の上達を妨げたであろう。かるく補助しながら補助輪無しでひたすら走らせるなど、彼の中での自転車走行の経験(データベース)をなるべく増やしてやり、うまく行ったと きに「その感覚を忘れないように」と一言言うだけで良かったのではないか。私は自分自身にも「左に傾いたから右!」と掛け声をかけているのだろうか。しばらくのあいだ、自問してみることとしたい。